理論社

2020.05.15更新

自分の道を見つけたい! 第2回

大堀貴士さん(シュート) 大堀貴士さん
(シュート)
今、ハーモニィカレッジでやってるキャンプ企画で、一番人気でリピーター率の高い企画が、オレが初体験したタイプの、「プログラムなしのキャンプ」やねん。
内容は、「明日もしっかり遊びたいから、夜は10時間は寝よう」とか、そういうことだけ決めて、他は「さあ、なにをしようか」で、みんなでやることを決めていくというもの。
ところが、大人向けには、この「プログラムなしのキャンプ」は理解されにくいから、ちゃんとプログラムがあるキャンプも一応用意しとかないとダメなんよ。大人は、馬に乗れる、海に入れる、クラフトはこれができる、といった「コンテンツ」で選ぶから、「なにするか分かりません」と言っても通用しない。
でも子どもは、「なにするか分からないキャンプ」がいちばん面白いし興奮する。内側から力が溢れてくるフロー体験が引き出されて、主体性が育つ。
なにもないからこそ自分で考えるし、工夫する。遊ぶ場所や道具を自分で見つけて、自分で遊びを創造する。

そして、この「さあ、なにをしようか」から始めるのって、実はスタッフの側も、本当に経験を積んできた人じゃないと出来ないことなのよ。
例えば、大学1年生のキャンプカウンセラーに、いきなり「さあ、なにをしようか」から始めなさいと言っても、「なにしたらいいの?」ってパニックになる。
だってオレ達みんな、「決まったプログラムで動く」という教育をずっと受けて来てるからさ、いきなり好きなように動いていいよって言われると、どうしたらいいか分からなくなってしまうんよね。

ハーモニィカレッジに取材にうかがったとき、5歳くらいの男の子がツヤツヤの興奮顔で走ってきて「すっごいの見つけたよ! こっち来て!」と私の手をぐいぐい引っぱって、その「すっごいの」のある場所に連れていってくれました。
そこにあったのは、小川にちょろちょろと水を注ぎ込んでいる5センチほどのパイプでした。男の子は内側のエネルギーが爆発せんばかりの様子で「すごいでしょ、大冒険だ!」と言い、パイプから注ぐ水に葉っぱの小舟をいくつも流していました。
男の子と一緒に小川や水や土を見ていた私は、ぎゅーんと子ども時代の世界に連れていかれるような心地がしました。みるみる目の前のちょろちょろした流れが大きく膨らんで見えてきて、巨大な滝、透きとおった川、生い茂るジャングルの緑、でこぼこの土壁や何かが棲んでいそうなトンネルの奥の闇。滝に飛びこんで冒険に漕ぎ出す葉っぱの小舟の行方に、ドキドキしました。

子どもの頃の私は、空き地の低木の隙間がほんのり薄暗いすばらしい秘密基地に見えていました。団地のベランダから眺める裏庭には、不思議の国があることを知っていました。そこで生活している小さな猿に似た愛らしい生き物のことも知っていました。本当にいると心から思っていたし、大人になった今でも、そんなのは子どものよくやる空想遊びだ、と片付けられる気がしないのです。
パイプから注ぐ水に「大冒険」を感じとった男の子は、大人が考えがちな「見立て遊び」をしていただけだとは言い切れないと思うのです。 小川やパイプのまわりに巨大な世界があることを体で知っていて、その世界の大きさが体の中でふくれあがっていたのだと思います。私は、男の子が感じている「大きな世界」を、自分も知っていたし、体全部を使って感じ尽くしていたことを思い出しました。

子どもの本の作家は、ファンタジーの世界像を物語として綴ることがありますし、そういった子ども向けの本は世の中にたくさんあります。 であれば、子どもは、「大人が書いたファンタジー物語を読んだから、世界にファンタジーを見出す」のでしょうか? 大人の教育や啓蒙の成果、アニメや絵本の影響なのでしょうか?
私はそうではないと思っています。
「子どものほうが、大人より先に知っている」のです。
自分たちの生きる世界には、「大冒険」や「大きな世界」が身近なそこここに在るということを、「子どもはすでに知っている」のです。 大人になってファンタジー世界を描き、書く作家は、「子どもの頃に知っていたもの」をもう一度見ようと、あるいはその正体を突きとめようとして物語を綴るのだと、少なくとも私はそう思います。
「子ども」という存在に内在する世界の巨大さ。
あの巨大さが自分の体内にも渦巻いているという確信があったから、私は子どもの本の世界を歩んでみたいと思ったのでした。

そして、「お昼ごはんが2時になっても死なない」とは、一見当たり前のようなのですが、その「当たり前」は、学校教育の中では見落とされがちかもしれないなと思います。生徒は厳密に時間で管理された行動を要請されますから。
学校で行くキャンプや遠足では、先生が「12時には生徒を集合させて、ご飯の用意をさせなきゃ」と、遊びまわる生徒を必死に呼び集める姿は、よく見られるものです。
学校では、「12時にはごはんを食べなさい」と言われてきましたが、もしかしたら本当は、「お腹が減ったときに食べる」というほうが、生き物としては自然な姿であるかもしれないなあ……なんて考えました。
そういった疑問自体が、学校や社会の中では「ないもの」「持ってはいけないもの」かのように扱われているのではないか、とも思います。

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