理論社

2020.05.15更新

自分の道を見つけたい! 第2回

大堀貴士さん(シュート) 大堀貴士さん
(シュート)
大人は、分かりやすい「効果」を求めがちだと思う。
目に見える部分が早く育つことを求めて、「早く葉っぱが育つ」というのを見たがる大人が多い。「目に見える部分」の手応えを求め過ぎていると思うねんな。
例えば早期教育なんかは、そういう要求に応える役割を担ってるんじゃないかな。「頭が良くなって受験に合格できますよ」的なさ。
一方、「さあ、なにをしようか」から始めるやり方は、「成績が上がりますよ」みたいな分かりやすい効果はないよね。でも、子どもが自分で成長していくための「根っこ」が育つのを促すように思ってるよ。
植物って、葉っぱばっかり育って見た目は派手に華やかになっても、根っこがひょろひょろやと、うまく成長できなくて倒れてしまったりするやん? 
だけど、根っこさえしっかりしてれば、一時的に葉が出なくなったり、幹が倒れても、また芽を出して成長していくことが出来るやん。人間も、根っこがしっかりしてると、倒れないでいられる力が強くなると思うねん。
ヒロさんは子どもたちにそういう「目に見えない部分」を育てる時間を提供していたと思うし、オレも子どもたちと、そんなふうに関わりたいなと思うよ。

子どもの成長に対して「目に見える、分かりやすい派手な効果、成果を求める」という大人たちの成果主義ともいえる傾向は、教育をはじめとして、大人が作った社会のさまざまな価値意識に根強く刷り込まれているもののように感じます。

私は中学生あたりになると、「学校の勉強」に強い疑問を抱くようになりました。当時の日記や友人へ書いた手紙を読むと、学校教育に対して毒々しい言葉で怒りや憎悪を書き連ねていて、「うわっ、これが中二病ってやつか……」なんて思うのですが、でも、当時抱いた疑問は、すっかり大人になった現在でも、新鮮な疑問として未だに生きていることを感じます。
教科書の内容を習得することについて、「テストで良い点を取って、受験で良い学校に合格し、なるべく良い進路に進むため」以外に、どんな意味があるのか、中高校生の私には分かりませんでした。
「自分が生きるために、本当に必要な情報が、ここにある感じがしない」と思っていたのです。

高校の時に教頭先生が、「君たちはやがてみんな、なんらかのプロフェッショナルになる。学校の勉強は、そのプロフェッショナルとして必要なものを掘りだすためのシャベルのようなものなんだ」と言ってくれたことがありました。この時はその情熱的な言葉に感動してしまい、少し納得したりもしたのですが……。実際に大人になり、ひとつの分野のプロとして生きはじめた自分の視点から眺め返してみても、学校で学んだことが「素晴らしいシャベル」になっているかと考えてみると、どうもそうとも思えないのです。
なんだか、「本当に大切なこと」は、教科書に載っている内容からじゃない、もっと違うところから学んできた気がするんだなあ。そして、逆に言うとそれは、「教科書や学校や教育じゃない何かからも、人間は学ぶことができる。その可能性がおおいにある」ということなんじゃないかな?

 

もしも自分が学校に通わず、通例の学校教育とは異なる方法や考え方で学ぶ時間を過ごしていたなら、いったい自分はどんな人間に成長したのだろう?
そんな空想をしていると、可能性の海の大きさを感じます。

次回は、不登校の寄宿生たちとの共同生活についてうかがっていきたいと思います。

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