『兎の眼 復刻版』『太陽の子 復刻版』×東京大学書評誌「ひろば」コラボ企画 名作をいまの大学生はどう読むのか?
【理論社×東大書評誌ひろば コラボ企画】
東大書評誌「ひろば」の皆さんに、『兎の眼 復刻版』『太陽の子 復刻版』を読んでいただきました。
作品と向き合って生まれた書評を、このたび特別に全文公開します。
時代を越えて読み継がれる名作だからこそ、現代を生きる学生たちの率直な感想や考察は、新たな読書の入り口になるはずです。ぜひ最後までご覧ください。

【兎の眼】
どこまでも突き抜けた生命力が、この小説にはある。主人公の新米教師・小谷先生とその受け持つ小学1年生のクラスの子どもたち、さらには一風変わった先輩教師・足立先生や校区のさまざまな大人たちの関わりの中で、小谷先生と子どもたちの成長が描かれる。『兎の眼』が発表されたのは1974年、学校を取り巻く事情や社会慣習なども変わり、小説中には現代ではさすがに許容されないような場面も見受けられる。しかし、子どもたちの成長を願う小谷先生や足立先生の思いや行動、校区の中にあるゴミ焼却場の劣悪な環境と、その移転の際の子どもたちの登校の問題、学級に馴染めない子どもや障害のある子どもをいかに学校教育の場で包摂するかといった課題など、この小説で描かれるテーマは、それぞれ形や様相を変えつつも、現代でも通用する普遍的なものだ。この小説の魅力は、出版から半世紀以上を経た現代でもなお色あせることはない。小谷先生や子どもたちに次々降りかかる問題は、物語が進んでも魔法のように解決したりはしない。それでも、よりよい今日を、明日を掴もうと奔走するその姿は、読者に未来への希望と、その未来への最初の一歩を踏み出す勇気を与えてくれるのだ。(R.H)
「兎の眼」において印象的なのは、真っ直ぐに人と向き合う子どもたち、先生、保護者たちの姿だと思う。彼ら、彼女らは、戦争の悲惨な過去や、戦後の社会の理不尽さに向き合いながら、助け合って生きていく。バクじいさんの戦争体験や、子どもたちに対する足立先生の言葉は、特に読者の胸を打つものだと思う。しかし、この作品から一つの主題だけを取り出すことは難しいかもしれない。それは、登場人物の喜びや葛藤の一つ一つが、この作品の魅力となっているからではないか。(三木)
『兎の眼』は小谷先生や小学校の生徒や先生たちの成長の物語で、ストーリーは大団円を迎えて終わっている、こういった理解が本当に本書全体を説明できているのか、私には甚だ疑問である。確かに小谷先生は鉄三をはじめとするクラスメイトや処理所の子供たちと心を通わせていき、彼らが小谷先生を後押しし、小谷先生も彼らを後押しする形で、処理所をめぐる問題に向き合い、解決に導いていく。これがメインストーリーであることは確実である。しかし、この説明で一つ抜かしているところがある。物語の要所要所で出てくる小谷先生の家庭の話題である。小谷先生の家庭に関するかぎり、彼女は成長もしていなければ、家庭の問題はむしろ悪化していると言っていい。言ってしまえば、家庭の話題は物語にとっての不協和音なのである。白状すると、私も小谷先生の家庭が物語上でどういった意味を持っているのかさっぱりわからない。ただ一つ言えることは、分からないことが本書を二度三度と読む機会を与えてくれるということだ。(筆頭株主)
良い教師とは。高度経済成長期を今の人が眩しく思うのはなぜか。本書を読むと、そんな疑問が浮かんでくる。しかし、一番の感想はそういった疑問ではない。精緻な人物描写による文学的感動である。そして、最初の疑問について考えるのにも、この感動は無視できないように思える。今を生きる私たちにとっては、倫理的に問題だと思える描写や設定が存在し、小谷先生の働きぶりは異様に映るなど、本来なら作品への没入を削ぐ要素が揃っている。しかしそうした要素こそが、いつの時代も変わらない子どもたちの素直さを際立たせ、結果として読書体験を忘れ難いものにしている。また、発達障害や公害、格差といった現在にも通じる問題も作中には出てくるが、明るい未来に裏打ちされた快活な人々が鮮明に描かれることで、読者は心を重くしすぎることなく、それらを直視できる。古さも危うさも抱えたまま、この作品は時代を越えて読む者の胸に深く残る。(TK)
こんな先生はちょっと嫌だな、というのが最初の感想だった。しかし読み進めるうちに、彼らのような存在を包摂する必要性を感じた。つまるところ本書は、「私にとっては受け入れ難い他者が、それでも誰かを救っている」というリアルな理解、大雑把に言ってしまえば「多様性の必要性」を訴えかけてくるのである。他者とはときに不愉快だ。常識が一致せず、時に自分の利益が削がれることもある。だから同質的な集団は魅力的なのだが、にも関わらず「多様性は重要だ」とよく言われる。その感情と理念の衝突から逃げるのではなく、真っ向から向き合ってみるとき、本書はよき導き手となるに違いない。(ヒラノ)
私たちは、昭和を知らない。入門・昭和史と銘打たれた新書をいくら読んでも、私たちの両親が懐かしむあの時代の経験を引き継ぐことはできなかった。こうやって、ある時代の生きた思い出が失われていく中で、ただ一つ残るものがあるとすれば、それは灰谷健次郎の書く地べたの物語なのだろう。『兎の眼』はまるで、あの頃の空気感、息遣いをそのまま保存するタイムカプセルである。それでいて、泣き虫な小谷先生が無口な問題児を「ハエ博士」にしてしまう奮闘ぶりは、今を生きる私たちにまで届く特大のエールだ。もちろん、今となってはありえない描写も多い。「みなこ当番」なんてやったら、注意義務違反で懲戒処分になるかもしれない。だけど、それを頭ごなしに批判してしまっていいのだろうか。ポリコレだとかコンプラだとか、難しい横文字が増えたけれど、温かい人間の心で正直に向かい合えば、お互いに優しく生きていくことができるのではないか。そう思わせてくれる、人間愛にあふれた物語だ。(K.W)
人に物を教えるとはどういうことなのか。知識を伝えるということか、あるいは学び方を教えるということだと言う人もいるかもしれない。しかし『兎の眼』において、小谷先生は様々な環境に生きる生徒たちとともに学んでいく。生徒たちは自分にできることを考え、自分から行動する。先生は生徒たちのことを学び、生徒達のために働く。大学を出た先生とごみ処理場の子供たちという大きく違う出自の人たちが、お互いにわかり合い、共に生きていく。そこには先生と生徒という立場を超え、人々が共に学ぶ姿があるのだ。どれだけ綺麗事を並べても、「違う」人とともに生きるというのは難しい。しかし小谷先生の必死の努力は、そして違いを超えて楽しく遊ぶ子供たちの姿は、現代の迷える私たちに教育を通じて他者と互いに理解し合い、共生していく術を教えてくれるのだ。(瑞穂)

【太陽の子】
「太陽の子」は、一冊の本と思えない程の奥深さときらめきを有している。沖縄出身の両親をもつ女の子、ふうちゃんは、おとうさんが心の病気を患ったことをきっかけに沖縄と戦争について考え始める。そこには、多くの人々が「戦争」と聞いて想起する感情を遥かに超えた深い悲しみがある。それでも、ふうちゃんや周りの大人、友人たちの言葉は、言語化し得ないあたたかさに満ちている。私を含め、戦争を体験したことがない人、身近に体験者がいないという人は、少なくないのが現実だと思う。しかし、この本の読者は、平和の切望に留まらず、死者の痛みとかなしみとともに生きる意味を考えさせられるのではないだろうか。(三木)
アイデンティティという言葉を初めて認識したとき、私は自分のそれについて考えたと思う。よく思い出せないが、明確な答えは出なかったはずだ。長いこと私は、過去の全てが今の自分をつくっていると自分に言い聞かせてきた。最近になって、この考えはある種の逃げなのではないかとも思う。例えば、私は地元があまり好きではない。1つの町に固執することに対して、視野が狭いからこその幸福だと見下していたこともあった。しかし、沖縄を愛する本書の人物からは、全てを受け入れてくれるような温かみと、沖縄と日本の関係への葛藤が感じられる。どこか憧れのようなものも生じてくる。彼らの楽しそうな姿は勿論、過去との接続があること、そしてそれを受け入れようと努力する様子が理由なのだろう。どのような過去であれ、それを身近に感じられたならば、アイデンティティも生じてくるのだろう。だが、それは難しい。だからこそこの作品が魅力的なのだと思う。(TK)
優しくあることを真っ直ぐに目指さなくなったのは、いつ頃だろうか。「いい人というのは、はじめからいい人であったわけではないのだろう」と主人公が思う通り、優しくあるには多大な精神力や努力を要する。しかも、やっとのことで身につけた優しさは、必ずしも当人を幸せにするわけではない。そうして私は、いつしか優しさを目指すのを放棄して、「優しい人ほど損をする」などと嘯くようになってしまった。しかし本作に登場する人々は皆、優しくお人好しな善い人たちで、しかもその善性は輝いて見える。「いい人ほど勝手な人間になれないから、つらくて苦しい」、確かにその通りだ。しかし、それでも、本書は善くあることの尊さを、生き生きとした登場人物を通して私たちに気づかせてくれるのである。(ヒラノ)
マイノリティになる経験をしなさい、と私の大学の先生は言う。疎外される側の気持ちを知りなさいと。戦後、沖縄から神戸にやってきてふうちゃんの店に集うお客たちは、皆そういう経験をしてきた人だ。この物語は、かつて「ちむぐりさ」な人生を庇いあって生きていた人々の存在を、私たちに思い出させてくれる。重い心の病気を患ったお父さん、一人ぼっちのキヨシ少年、語れない過去を抱えた大人たち。明るく賢いふうちゃんの光は、時に彼らの影を一層色濃く映し出す。それでも、行政や司法が取りこぼす傷ついた人の心を支えてきたのは、今も昔も人間同士の繋がりだった。『太陽の子』を読むと、関東育ちの私はいつも寂しくなる。こんなに温かい人たちの輪があるのに、自分にはきっと、本当の意味でそこへ入ってはいくことはできない気がしてしまうからだ。それでもせめて、不用意に触れてしまうことがないように、彼らの傷の形を知っておきたいと思う。(K.W)
この企画にご協力くださった東大書評誌「ひろば」の皆さんに、心より感謝申し上げます。
作品と真摯に向き合い、一つひとつの言葉を丁寧に紡いでくださったことに、深く御礼申し上げます。
