株式会社 理論社

童心ひとすじに ー小宮山量平をおくるー

1.タネをまく

小宮山量平は、1916(大正5)年5月、長野県上田町(現・上田市)で、小宮山家の11番目の子どもとして生まれた。 12番目が生まれて母親が亡くなり、祖母のもとで「ばあちゃん子」として育った。小学生で読んだ児童雑誌『赤い鳥』から大きな影響を受けたという。次いで父親が死亡して家業が傾き、一家は離散することになる。
 東京の叔父に引き取られ、小石川の窪町小学校を卒業した。第一銀行の給仕となり、民俗学者としても知られた副頭取の渋沢敬三(後の日銀総裁、蔵相)に仕える。労働運動に加わり治安維持法違反で検挙され、特高刑事に取り調べを受けた。警察の留置場では、哲学者の粟田賢三といっしょになったり、プロレタリア演劇の千田是也から励ましを受けたりした。
 苦学して東京商大(現・一橋大学)専門部に進み、生涯の友人たちと親交を深める。大学で杉本栄一、上原専禄、高島善哉などの気鋭の学者に出会い、真理追究の厳しい姿勢を学んだ。卒業後、民間会社に勤めるが、すぐに応召して旭川で軍隊生活を送る。戦争の不条理を体験したという。
 敗戦により、量平はいったん上田に帰郷した。1947(昭和22)年に上京し、丸の内のビルの片隅に《理論社》を創業し、『季刊理論』を創刊する。創刊号は、牧野英一(刑法学)、上原専禄(歴史学)、杉本栄一(経済学)ら、錚々たる学者の論文が巻頭を飾った。
 アジア・太平洋戦争への反省から、戦後民主主義を担う出版人として、「自分の足で立ち、自分の頭で考える」という自立的精神の確立をめざした。同時に、18世紀ドイツ・ロマン派の詩人ノヴァーリスのことば《同朋よ 地は貧しい われらは 豊かな種子を 蒔かなければならない》を理念として高く掲げての出発だった。

2.花ひらく児童文学

50年には、計量経済学導入の先駆者である杉本栄一の『近代経済学の解明』を刊行し、第1回毎日出版文化賞を受賞した。理論社創成期の社会科学系出版のなかでも最も大切な作品とされている。
 米ソ冷戦体制が始まると、米国の対日占領政策の転換にともない、朝鮮戦争や講和条約などをめぐり、国内の政治対立が激化した。 平和運動が高揚するなかで、量平は、武谷三男・羽仁五郎・平野義太郎・野間宏など、リベラル派の著作を広く手がけ、日本の戦後民主主義の真価を問い続けた。
 その後、『日本シナリオ文学全集』、エイゼンシュテイン『映画シナリオ論』では映画芸術・シナリオ論、『服部之総著作集』でマルクス主義歴史学、『起ち上がるアフリカ』でアジア・アフリカ問題や民族解放運動など、様々な課題に先駆的な関心を寄せた。
 60年安保改定をめぐる大衆運動の帰趨をみつめながら、量平は、おとなよりも子どもに眼を向けるようになる。やがて創作児童文学の世界に重心を移していった。 「自立的な人間の誕生を目ざす戦後精神の輝きは、もはや次の世代に期待する以外はない」と、量平は大きく舵を切った。
 理論社児童文学の記念碑的な作品となる『つづり方兄妹』(1958)を出版する。 それまでのような外国作品の翻訳ではなく、日本の作家による日本の子どものための創作児童文学を本格的に始める。その第1作目は、アイヌを新しい歴史観からとらえ直した斎藤了一の『荒野の魂』(1959)だった。
 続いて60年には、多彩な児童文学が一斉に花開き、清新な作品が次々に発表される。こうした若手の作家を見出して、理論社からデビューさせ、育てたのが、編集者としての量平だった。名伯楽の面目躍如である。 山中恒『とべたら本こ』、今江祥智のデビュー作『山のむこうは青い海だった』、寺村輝夫の王さまシリーズ第1作『ぼくは王さま』、神沢利子『ちびっこカムのぼうけん』など、ロングセラーとなる名作が次々と生まれる。 また子どもに向けた本作りの大切な要素として絵を位置づけた。長新太や和田誠、さらには井上洋介、滝平二郎らが活躍する。

3.子どもから学ぶ

このころ経済的苦境に陥っていた児童詩誌『きりん』の刊行を引き継いだ。さらに村山知義『忍びの者』、早船ちよ『キューポラのある街』など、後に映画化された人気作品も刊行する。
 次いで庄野英二『星の牧場』、いぬいとみこ『ながいながいペンギンの話』、乙骨淑子『ぴいちゃあしゃん』、大石真『チョコレート戦争』、小沢正『目をさませトラゴロウ』、古田足日『宿題ひきうけ株式会社』、斎藤隆介『ベロ出しチョンマ』など、戦後児童文学史に残る傑作も生まれた。
 創作児童文学は60年代に黄金期を迎えるが、経営的には必ずしも好調とはいかなかった。そんななかで作家・批評家・画家・出版人らによる《理論社創作児童文学100冊を祝う会》(1967)が椿山荘で開かれ、量平は小出版社の悲哀と栄光を感じたという。
 一方、女性史に一時代を画す『高群逸枝全集』全10巻、演劇では宇野重吉『新劇・愉し哀し』、スタニスラフスキーの『俳優の仕事』(千田是也訳)全4巻なども上梓された。
 ソ連の児童文学者チュコフスキーに運命的な出会いをした量平は70年、子どもの言語感覚を分析した名著「2歳から5歳まで」を編集、出版する。 その《子どもから学ぶ》という発想に深く感銘を受け、これを理念とした児童文学の新たな地平を切り拓くことになる。
 それは、今江祥智の『ぼんぼん』、ロングセラーとなる灰谷健次郎『兎の眼』『太陽の子』、西村滋『お菓子放浪記』などに結実していった。社長から会長に就いた量平は、理論社の第1線の仕事からは次第に身を引いていく。 80年代に入ると、倉本聰のテレビ・ドラマのシナリオ『北の国から』、『椋鳩十の本』全25巻などを順次刊行する。

4.千曲川の流れ

この間、量平自身の執筆としては、10代のひとのためにその魂を書いた『チャップリン』(1964)、幼少期に親しんだ良寛さんを新しい目で描く『良寛さ』(1975)などがある。また『編集者とは何か』『子どもの本をつくる』『出版の正像を求めて』(各1983)の三部作を書いた。編集者の《創意と冒険》を強調し、その企画力を重視する編集者論を展開している。 モスクワで開かれた《科学と文化の会議》(1987)に招かれ、大江健三郎、山田洋次らとともに訪ソした。
 90年に居を故郷上田に移すと、地元雑誌に寄稿するなど、地域の文化活動に深く関わっていった。上田駅前に《エディターズ・ミュージアム》を開き、ここを拠点に執筆や講演活動を続ける。 バブル崩壊にともなう日本社会の激変ぶりをみすえて、「≪命を大事にする≫という哲学を日本人はもう一度取り戻さないといけない」と繰り返し発言していた。
 量平は、80歳を超えて、自伝的な長編小説『千曲川第1部―そして明日の海へ』(絵・長新太、1997)を書き下し、なお衰えをみせない筆力をみせた。翌年、第20回路傍の石文学賞特別賞を受賞した。 『千曲川』は、敗戦までの第4部を上梓して、2002年に完結した。総原稿は2500枚を超える畢生の大作となった。
 戦後の理論社創業に始まる第5部の執筆に本人も意欲をみせ読者も期待を寄せたが、未完のままとなった。量平が幼いころから愛していた千曲川はいまも滔々と流れている。

5.良寛さんを世界に

いま世の中はベストセラーの多きにたえない。量平は最後まで、こうした出版界の現状、一部にみられるベストセラー主義や商業主義の風潮に批判的だった。 もともと理論社創業のときから、自分らの企画は「今日の出版コマーシャリズムと両立するものではない」と断言していた。編集者の仕事を《創造活動》、文化の創造ととらえ、経営主導型の量産主義に抗してきた。その姿勢は終生揺らぐことはなかった。
 「ベストセラーといっても、2か月か3か月、せいぜい半年もすれば忘れ去られるようなものばかりでしょう」と苦笑していた。 2011年秋、量平は、新聞への寄稿文で「3.11の大変革の警鐘をどう受けとめるか」として、道元禅師から良寛に流れる≪清貧の思想≫を説いている。ものの「もったいない」よりも、自然と折り合いをつけて清々と生きていく思想や精神を大切にしていた。
 長年親交のあった山田洋次監督が11月、上田のエディターズ・ミュージアムに量平を訪れた。このとき量平は、「良寛さんの≪清貧の思想≫を世界の新しい思想とするのが、私や山田さんの新しい仕事となるでしょう」と楽しそうに語っている。
 子どもにせがまれて良寛が凧に≪天上大風≫と書くと、凧は大空に天高く舞い上がったという。量平も、≪清貧の思想≫が天高く上がるのを夢みていたのかもしれない。
 棺を蓋うて名定まるともいう。いまその95年の生涯を顧みて、戦後日本の出版文化に異彩を放ち、その歩みは、児童文学の戦後史とも重なっているように思われる。
 上京すると、よくお茶の水にある山の上ホテルでコーヒーを飲みながら、量平は出版界の今昔を懐かしそうに語った。話しを終えると、いつも帰り際にこう言った。
 「ぼくは人に見送られるのは好きではないので…。またお会いしましょう。それでは、はいさようなら」
 ベレー帽をかぶり、杖を曳いて、ひとり坂道を上がって行った。

「この里に 手まりつきつつ 子供らと 遊ぶ春日は 暮れずともよし」 (良寛さ)

長野県上田市 小宮山量平の編集室
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文責:渡邉文幸